梼原を開拓した藤原(津野)経高は、平安時代の中央政界の頂点にあった摂関家に生まれながら、陰謀により四国に流されたとされる。この地にたどり着いた経高は、峠より眼下に広がる森を見渡して一点光り輝く湧き水を見つけ、それを田に引いて「津野荘」を開いたという。
そして伊予から進んだ技術を持つ者を招き入れて開拓事業を進め、また、津野山神楽を今に伝える三嶋神社を勧請した。
それから千百余年、経高が京の都からもたらした先見性と文化の上に、梼原の物語は連綿と紡がれ、今日まで続いている。
梼原の人々の間には、朝廷を支え国を治めていた藤原氏の一族・経高の遺民であるという誇りが受け継がれてきた。数多く遺る茶堂は、滅びた後もかつての領民たちに慕われていた津野氏の霊や諸仏を祀って江戸時代に建てられたもので、やがて道ゆく人を接待する場、そして情報が集まる場となる。
そうした人々の意識が、幕末に土佐藩・他藩を問わず勤王志士たちを支えた「一村勤王」の態勢につながったとも言われる。そして梼原は、志士たちが「日本の夜明け」へと旅立つために越えた峠の郷、歴史の舞台となったのだった。
自然・人・神仏が渾然一体となった世界に花開いた平安の文化は、豊かな自然に恵まれた梼原の地にしっくりと落ち着き、津野山神楽がつなぐ「神人和楽」の境地(神と人が共に在る世界)に象徴されるその自然観・人間観は、山深いがゆえに時代を越えてこの郷に遺されることになった。そしてそれは、梼原の人たちの中に、神々が生まれた高天原を人が目指すべき理想郷ととらえる志・精神性を育み続けている。
辺境にあってなお高い文化力を備える梼原は、その歴史を通じて名だたる賢人たちを世に送り、また引き寄せてきた。
例えば室町時代の領主・津野之高は、その文才を将軍足利義教に高く評価され、この地に生まれた禅僧の義堂周信・絶海中津は、中世五山文学の雄として活躍した。さらに近年では、民俗学者・宮本常一、作家・司馬遼太郎、宗教学者・山折哲雄、建築家・隈研吾らがそこに名を連ねている。
いにしえより受け継がれてきた世界と文化、そこから開かれる人類の未来への扉を秘める梼原。坂本龍馬を国の夜明けへと旅立たせ、司馬遼太郎に日本人の原点と可能性を展望させたこの「峠」の郷に、次はどんな夢を描く志士がやってくるのだろうか。