• 雲の上の町 ゆすはら ─高知県梼原町─

津野山神楽

坂本龍馬脱藩の道・維新の道

幕末の風雲急を告げる文久2年(1862)春、坂本龍馬は、梼原から那須俊平・信吾父子の案内で盟友澤村惣之丞とともに、回天の偉業を夢見て脱藩。

土佐勤王党、天誅組、忠勇隊に参画した梼原出身の志士、そして吉村虎太郎(津野町出身)、那須信吾、那須俊平、掛橋和泉、中平龍之介、前田繁馬たちは、維新を夢見て決起し、大いなる使命感に燃えながら野越、神根越、化粧坂、そして国境の九十九曲峠、韮ヶ峠への道を幾度となく往来したといわれます。

志士たちの多くは、志半ばにして不遇な最後を遂げてしまいましたが、彼らの生きざまは、私たち現代人の心を捉えてやみません。「維新の道」は、まさに日本の未来を切り開く希望の道だったのです。

維新の門

大志を抱き、峻険を掛け抜けた男たちの決意が偲んで。 志士の足跡が残る地を選び八志士の群像を建立。維新の門は、郷土を誇りとする青年たちの情熱と維新の里の発展を希求する町内外の多くの有志の熱い想いによって建立されました。

坂本龍馬について

坂本龍馬

高知の郷士坂本八平、妻幸の二男として生まれる。江戸は、千葉定吉の門に入り北辰一刀流をおさめた。武市瑞山と交わり勤王党に血盟加入、文久二年春同志澤村惣之丞と脱藩、勝海舟らに啓発される。

薩長同盟の締結、大政奉還の推進など、維新の指導者として活躍したが、慶応三年十一月十五日、盟友中岡慎太郎とともに、京都近江屋で倒れた。

六志士について

吉村虎太郎

天保八年(1837)四月十八日、芳生野村庄屋吉村太平、妻雪の長男として生まれる。間崎滄浪の門に学び、肝胆相照らす間となる。安政六年(1859)梼原村番人大庄屋として赴任した。

武市瑞山らと勤王党を結成、文久二年(1862)脱藩して京に上った。一時捕らえられて牢舎に呻吟する身となったが、出所後再び京に上り、翌三年(1863)二月上京し、中山忠光卿を擁し天誅組を組織し、大和に兵を挙げた。

しかし八・一八の政変で孤立無援となり、鷲家谷(奈良県)にて幕軍に阻まれ天誅組は壊滅、虎太郎も九月二十七日壮烈な戦死を遂げた。 二十七歳

那須信吾

文政十二年(1829)十一月十一日、佐川村浜田宅左衛門光章、妻悦の二男として生まれる。梼原村郷土那須俊平の養子となりその娘為代と結婚した。

文久二年(1862)三月二十六日、坂本龍馬、沢村惣之丞を韮ヶ峠まで案内し、四月八日には土佐藩佐幕派の巨頭吉田東洋を斬り、その足で別枝徳道より脱藩し京都に潜伏した。

翌三年(1863)、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵したが幕軍に阻まれ壊滅、鷲家口(奈良県)で九月二十四日戦死した。 三十五歳

那須俊平

文化四年(1807)一月二日、坂本代吾(重隆)の子として梼原村に生まれ、同村郷士那須忠篤の養子となった。武芸を好み、那須道場を開き指導した。特に槍術に長じ、「土佐一槍の達人」と称された。

元治元年(1864)六月六日、玉川壮吉と脱藩、忠勇隊に入った同年七月、禁門の変に参加し、。奮戦の末同月十九日、鷹司邸後門で戦死した。 五十八歳

前田繁馬

天保六年(1835)五月、松原村庄屋前田広作、妻きくえの長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、文久三年(1863)一族の前田要蔵に従って上京。禁裏守護諸藩の志士と交わった。吉村虎太郎、那須信吾らと交わって勤王の志を固めた。

吉村虎太郎の挙兵に加わり、天誅組に入って大和に進撃したが、政変によって隊は壊滅、初瀬(奈良県桜井市)で同年九月二十六日戦死した。 二十九歳

中平龍之助

天保十三年(1842)四月三日、梼原村地下浪人中平佐平(定好)、妻登根の長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、同志と気脈を通じ、勤王の志を篤くする。

文久三年(1863)十一月六日、田所壮輔、尾崎幸之進、安藤(東)真之助らと脱藩、長州忠勇隊に入り禁門の変に参戦した。激闘の末重傷を負い元治元年(1864)七月十九日鷹司邸内で自決した。 二十三歳

掛橋和泉

天保六年(1835)三月、梼原村那須常吉、妻歌の二男として生まれ、同村神職掛橋因幡の養子として入った。すぐ隣の庄屋吉村虎太郎と親交を重ね、勤王の志を固めた。

文久二年(1862)同志が相次いで脱藩、家が裕福であった和泉は、家財を費やして彼らを援助した。これが養母の知るところとなり、この詰責を受け、同志に類の及ぶことを恐れ六月二日自決した。 二十八歳

その他、関連人物

澤村惣之丞

高知潮江村地下浪人の家に生まれる。文久二年春坂本龍馬とともに脱藩、勝海舟の神戸海軍塾に学び、亀山社中に加わって、坂本龍馬の片腕となって活躍した。

慶応四年一月、幕府軍の敗退を知って長崎奉行は退散した。その奉公所を占領して市中の治安維持に当っているとき薩摩藩士を誤殺、「この大事のときに薩摩と土佐の間に溝を生じてはならない」と、従容として自決した。